錦帯橋物語
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名橋 錦帯橋物語
 水面きらめく「清流錦川」、背景に緑あざやかな城山自然林。延々と続く美竹林に、しっとりとした城下の町並み。
 そんな絶好のロケーションの中、優麗なたたずまいを見せる五連の名橋『錦帯橋』。
 幅5m、長さ193.3m、橋面に沿って210m、築城技術を用い、組木の技法を最大限効果的に活用したこの橋は、300年以上の昔に創建されたとは信じられない程、精巧且つ頑丈で、しかも美しい。
 日本三名橋に数えられ、国内外にその雄姿を知られる『錦帯橋』は、山陽路観光の主要拠点の一つでもある。
  岩国を語る時、欠かすことの出来ない『錦帯橋』。
  市民の誇りであり、市の象徴である『錦帯橋』。
 その創建からの物語は、今日まで子々孫々と語り継がれています。

錦帯橋の歴史

不落の名橋の考案

三代藩主
『吉川広嘉公像』

(吉香公園)
 城下町を流れる清流『錦川』には、幾度も架橋がなされました。しかし、増水時の水流の激しさは想像を絶し、橋はことごとく流失します。渡し船だけに頼る交通の不便と増水時の危険は大変なものでした。
 「流れない橋を架けたい。」
 それは、歴代藩主同様、三代藩主『吉川広嘉(きっかわひろよし)公』の切なる願いでした。
 そのためには橋柱のない橋を架けるか、橋柱そのものに工夫を凝らすしかない。
 そこで広嘉公は、甲州街道の渓谷に架かる橋柱の無い橋『猿橋』に学びます。

しかし猿橋の架かる桂川の川幅は30メートル。川幅200メートルにも及ぶ錦川とは河川の規模も水流の勢いも違いすぎる。
そこには技術の限界という大きな壁がありました。
 病弱であった藩主広嘉公は、病気療養の際、明の帰化僧で医師でもある『独立(どくりゅう)』と出会い、治療を受けます。
 明文化に関心のあった広嘉公は、『独立』の所持する『西湖遊覧誌』という書物に興味を抱き、これを拝見する機会を得ました。
 〔そこには湖に点在する島伝いに石橋が架かる挿図があった。〕
 『これだ!』 一つの妙案が閃く。
 構想は決まった。錦川に小島の様な橋台を造り、そこに頑丈なアーチ型の橋を架ける。試作と失敗を重ねた末、延宝元年(1673)築城技術と組木の技法を最大限に生かした希代の名橋が完成したのでした。

明の帰化僧『独立』
独立との出会いが名橋創建の大きな転機となりました。
橋が完成して以降、「五龍橋」、「城門橋」、「龍雲橋」など色々な呼び名がありましたが、宝永年間(1704〜)以後、文学的表現として『錦帯橋』と呼ばれるようになりました。


世界的遺産の流失

●町中大騒ぎで、皆ずぶ濡れになるのも忘れて堤防に駆けつけました。
 不落の名橋も戦中戦後には手入れが行き届かず、加えて戦後の海上埋め立てに伴う周辺の川砂の大量採取
 そして昭和25年(1950)9月14日、岩国地方を襲った『キジア台風』
 激しい暴風雨は、やがて錦川の異常な増水を来し錦帯橋を襲う。
 『錦帯橋を守れ。』市民は六尺樽に水を入れ、錦帯橋・橋上からの圧力で流失をくい止めようとしました。
 しかし、午前9時40分、先ず3番目の橋台が亀裂を生じ崩壊したため第3、第4橋が流失・・・・
 かくして風雪に耐え276年、「国宝に」との話もあった名橋は、多くの市民が見守る中で濁流に飲み込まれていきました。

『橋が流失する時、逆巻く洪水を眺め、
     男泣きに泣いて橋を見送った。』

           流失を報じた地方紙の一文より…

●六尺樽の重しも虚しく濁流に飲み込まれる錦帯橋
(昭和25年9月14日)


名橋再び
 市民にとって、象徴であり誇りでもある錦帯橋を失ったことは、大きな悲しみでした。
 けれどもそのショックから立ち直るのも早く、一週間足らずで市議会が再建声明を発表、直ちに全市をあげた再建運動が粘り強く展開されました。
 そして翌年2月22日から、延べ6万9千人の労力、1億2千万余りの巨費を投じての大事業が始まりました。
 再建の調査に入った技術者達は、「錦帯橋の工法は現代力学の法則に合致していて、何ら改善の余地は無い。」と結論したほど、その構造は精巧なものでした。
 こうして約2年の歳月を費やし、歴史的名橋は蘇り、昭和28年1月15日、渡り初め式を行いました。
 流失の前後、国内では「日本百景」の選考が行われていました。錦帯橋は再建運動の最中にありましたが見事「日本百景第一位の地」に選ばれたのでした。
この決定に他の選考地から、「流失した建造物を選考対象とするのはおかしい。」とのクレームがありました。
 これに対する主催者の見解は、「錦帯橋は必ず元の姿で再建されると確信しており、この選考結果に問題はない。」と。
この栄誉は、再建運動の大きな弾みとなりました。
崩落した錦帯橋
再建が決まってからは町中の棟梁がこれだけにかかりっきりになったと言われています。
再建される錦帯橋
起工式
 昭和26年2月22日
 昭和27年中に工事はほぼ完成
渡初式
 昭和28年1月15日
完工式
 昭和28年5月3日
錦帯橋  その匠の技
五連の名橋『錦帯橋』
 河原から錦帯橋本体の構造部(裏面)を見上げると、そこには巻き金とカスガイを使用した『木組の技法』を見ることができます。
 幕府の『一国一城の制』により、天守を破却された岩国藩。藩の象徴を失った岩国藩にとって、錦帯橋は城に代わる新たな象徴でした。
河原からの眺めは
   必見のスポット!

錦川の河原から橋面裏を見上げると、頑丈な木組の様子が分かる。
橋上からの圧力で強度が増し、一層頑丈になる仕組みです。
平成の架替
 昭和28年以降、半世紀にわたって人々を渡し続けてきた錦帯橋ですが、木造橋の宿命である腐巧による傷みが見られるようになったため、平成13〜15年度に50年ぶりとなる「平成の架け替え」が行われました。この度の架け替えは、現錦帯橋の木造部分(橋脚部分は除く)を現橋の形・構造通りに原形修復し、総事業費約26億円を要する大事業となり、平成16年3月20日錦帯橋架橋工事完成式及び渡り初め式を行いました。
岩国の歴史
 岩国は古くは『石国』または『磐国』とも書かれ、万葉集の中に、
周防なる 磐国山を 越えむ日は 手向けよくせよ 荒き其道

とあります。
 岩国は、平安末期の『岩国氏』、その後、大内氏に属した『弘中氏』、そして毛利元就の支配に続き、1600年『関ヶ原の合戦』を機に、出雲の国『富田月山城12万石』から岩国3万石(後6万石)に移封された『吉川広家』により、近世岩国藩の幕が切られ、城下町として栄えました。
 岩国藩は、藩主にして13代−270年の間、藩政の方針として文武両面の人材育成、文化の向上に努め、なお2,000余町歩の大干拓を行い、産業の奨励と勤倹貯蓄の美風に努めました。


藩政庁を描いた『元朝登城の図』
岩国藩は、幕末に至るまで宗家(毛利家)の支藩としての悲哀を辿りますが、藩内は産業が盛んで学問や武芸の水準も高く、山陽街道の中でも特異な藩として知られて行きます。
藩の経済力も、実質には10万石、17万石とも言われる程になりました。
*それらがやがて希代の名橋『錦帯橋』を創建する土台となっていきます